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古代ローマについて
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ローマ劇場(マインツ)
Romisches Theater


古代ローマ時代、ライン川沿岸では最重要都市であったマインツ(古名モゴンティアクム)に建設された劇場の遺跡。1990年代、マインツ南駅の拡張工事の際に発見・発掘された。そのため南駅は「マインツ・ローマ劇場」駅に改名。かつては直径116m、舞台幅42m、1万人以上の観客を収容した、アルプス以北では最大のローマ劇場だったという。
ヨーロッパの各都市に残るローマ劇場や円形闘技場の遺跡は、現在では客席が復元されて野外演劇とかコンサートの会場に使われていることが多いが、ここも客席を整備中のようだった(2008年訪問時)。しかし残念ながらマインツのローマ劇場は、肝心の舞台上に鉄道の駅と線路があり、客席の一部も中世のシタデル(城跡)に覆われていて、あまり拡張の余地はなさそうである。


ローマ劇場跡の航空写真(説明看板より)


客席部分の遺構。すぐ後方に駅のホームがある。
なお「マインツ・ローマ劇場」駅の近くには、ライン河畔で発見されたローマ時代の軍船などを展示した古代航海博物館(Museum fur Antike Schifffahrt)もある。
 
| MONVMENTA(遺跡) | 15:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
アウラ・パラティーナ
AVLA・PALATINA


ドイツ西部の都市トリーアに残る帝政後期の巨大遺跡。建造主の名からコンスタンティヌスのバシリカとも呼ばれる。アウラはラテン語で「王宮」、パラティーナはローマにあるパラティーノの丘(皇帝宮殿があった)から転じて、これも「宮殿(パレス)」の意味。


アウラ・パラティーナの内部

トリーアはコンスタンティヌス大帝が治世初期に拠点とした都市で、310年頃に建造されたアウラ・パラティーナは主に謁見場として使われた。長さ67m、幅27m、高さ33m(現在のマンションでは約10階建の高さに相当)、壁の厚さ3.4mという大きさでありながら、構造的にはシンプルな単一のホールとなっている。これだけの大空間では、地中海地方ならともかく、アルプス以北では冬は相当寒かったのでは?と思いきや、そこは超古代文明の担い手であるローマ人、床や壁の中に蒸気を巡らせる暖房システムを完備していた。ちなみに約1200年後のルネサンス時代、フランス王フランソワ1世が建築させたシャンボール城は、ホールを大きくしすぎたため、冬は寒くて使い物にならなかったそうである。


隣接する選帝侯宮殿と比較すると巨大さがわかる。


アウラ・パラティーナの復元模型
(トリーア考古学博物館)
当時は玄関廊などが付設されていた。


アウラ・パラティーナの建造当時の床石
(トリーア考古学博物館)


アウラ・パラティーナの復元イラスト


中世以降は大司教の居館などに転用された。


第2次大戦で被災したアウラ・パラティーナの写真。
現在はプロテスタントの教会になっている。
 
| MONVMENTA(遺跡) | 15:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
スリス・ミネルヴァ神殿
Temple of Sulis Minerva


イングランド西部の都市バースにあるローマ時代の神殿跡。有名なローマ浴場に隣接していた。現在はローマン・バス博物館の中で遺構や発掘品を目にすることができる。スリスとは、先住民のケルト人が崇拝していた泉の女神のこと。ローマ人は、ローマ神話の治癒の女神ミネルヴァ(ミネルウァ)と先住民の女神スリスと同一視したのである。


ローマ時代のバースの復元模型
右:スリス・ミネルヴァ神殿
左:ローマ浴場

建立は浴場と同じく西暦65年〜75年頃。ブリテン島では珍しい古典様式で、同様の例は他にコルチェスターのクラウディウス神殿しか知られていない。中庭に囲まれた高さ2m以上の基壇に立ち、正面階段の上に、ゴルゴンの装飾が施された破風を支える4本のコリント式の円柱が並んでいた。大きな扉の先にある祭室には窓はなく、金メッキの女神像が、暗闇の中で篝火だけに照らされて鎮座していた。2世紀の後半には、側面の小礼拝室と周歩廊が追加される。
その後もスリス・ミネルヴァ神殿は信仰の拠点であり続けたが、391年、キリスト教徒の皇帝テオドシウスが帝国中の異教の神殿の閉鎖を命じたため、修復されることもなくやがて朽ち果てていった。


スリス・ミネルヴァ神殿の破風
ライトアップで当時の色彩を再現している。1790年に発掘された。中央には蛇髪の怪物ゴルゴンの首の彫刻がある。これはペルセウスに退治されたゴルゴンが、ギリシア神話の女神アテナに相当するミネルヴァに贈られて、盾(イージス)の飾りとなったことから。ゴルゴンの右下にはミネルヴァの使いであるフクロウ、左下には(半魚神トリトンがかぶる)イルカの兜が彫られている。


スリス・ミネルヴァ神殿の中庭
占いのための生贄の儀式が行われていた所。


女神ミネルヴァのブロンズ像
1727年に発掘された。実物大の人間の頭部よりわずかに大きい。頭髪の欠けた部分は、先の尖ったコリント式の兜をかぶっていたと考えられている。現在はほとんど失われているが、調査の結果、もとは6層に重ねた金メッキで輝いていたことがわかった。最初の2層は水銀を利用したアマルガム法による鍍金、残りの4層は金箔を貼りつけたもの。これは、年月を経てメッキが剥がれていくたびに、やり直したためと推察されている。
| MONVMENTA(遺跡) | 12:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
ローマ浴場(バース)
Roman Baths


イングランド西部の都市バース(Bath)にあるローマ時代の浴場跡。おそらくイングランドで最も有名なローマ遺跡。現在はローマン・バス博物館となっていて、遺跡の他にも豊富な展示品やCG映像が楽しめる。
古代のバースは、先住民のケルト人が崇拝していた泉の女神スリスにちなんでアクアエ・スリス(スリスの泉)、またはアクアエ・カリダエと呼ばれていた。アクアエ・カリダエとは、ずばり「温泉」の意味。ローマの支配以前、紀元前9世紀の古代ブリテンの王ブラドッドBladud(シェイクスピアの悲劇で有名なリア王の父)が源泉を発見して疫病を治癒、のちに都市を建設したという伝説もあり、大昔から温泉地として知られていたようだ。ローマ皇帝クラウディウスによる征服後、西暦65年〜75年頃にローマ式の浴場とスリス・ミネルヴァ神殿が建設された。


ローマ浴場の復元模型
後方はスリス・ミネルヴァ神殿


聖なる泉(Sacred Spring)

浴場は他のローマ都市と同じく、複数の浴室やサウナ室、マッサージ室などからなる複合施設であったが、ここの最大の特徴は、水道水を沸かすのではなく、天然温泉が湧き出るまさにその上に建てられていたこと。「聖なる泉」と呼ばれる源泉からは、ミネラルを豊富に含む46度の熱湯が現在も1日に117万リットル湧き続け、ローマ時代から現役の排水溝(博物館内を通っている)が、浴場で使わない余分な量をエイヴォン川まで流し捨てている。
泉を見ればコインを投げて願い事をするのはいつの世も同じなのか、「聖なる泉」からは総数12,000枚ものローマ時代の貨幣が発掘された。刻まれていた皇帝の顔は、暴君ネロや賢帝マルクス・アウレリウス、そして最後は異教の神殿の閉鎖を命じたテオドシウスに至る。中には現在トルコ領であるアンティオキアで鋳造され、はるばる旅してきたエラガバルス帝の4ドラクマ銀貨もあった。


大浴場に注がれる温泉の取水溝

中世に王の浴場(The King's Bath)として改装された「聖なる泉」と違い、大浴場は長い歳月で地下に埋もれていたのが、19世紀に再発見され、現在見られる欄干やローマ時代の偉人の像が製作された。ローマ時代は円筒形の屋根に覆われていて、柱廊で軽食をつまむこともできたという。また、源泉に直結する噴水もあったらしい。現在は入浴はできないが、手を入れてみるといい湯加減だった。


東の浴場
現在は館外の広場の地下に位置する、4世紀に拡張された所。浴槽に入りやすいように階段が、そして湯船の中には腰掛け用の石(?)が置いてある。彩色された壁は近年復元したもの。


西の浴場の円形の冷水槽
サウナで火照った後はここで身体を冷やす。壁には入浴するローマ人の姿が映写されていた。
| MONVMENTA(遺跡) | 12:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
ローマ城壁(サラゴサ)
Muralla romana de Zaragoza


スペイン、アラゴン州の州都サラゴサにあるローマ時代の城壁。もともとサラゴサは初代皇帝アウグストゥスによって属州ヒスパニア・キテリオル・タラコネンシス(近ヒスパニア・タラコネンシス)に建設された植民市カエサル・アウグスタが起源。都市名は、カエサラウグスタ→サラクスタ→サラゴサと訛って現在に至る。城壁は1世紀、二代目皇帝ティベリウスの時代に築かれた。
両側に型枠として石を積み上げ、間に火山灰を利用した天然コンクリートを流し込み、固まる前に石灰岩の割石を敷き詰めて埋め込む・・・という作業を繰り返す、ローマ人が得意としたオプス・カエメンティキウム(opus caementicium)工法で構築。この工法は、先にコンクリートを入れるので隙間ができないという利点があった。
城壁の総延長は約3,000m。約120基の防御塔と、東西南北の四つの門が設けられていた。建築家フランシスコ・イニゲス(11世紀に建築されたイスラム様式のアルファフェリア宮殿の修復を手がけた人物)の研究によると、サイズは高さ10m、幅4mで、14〜16m間隔で半円形の塔があったという。3世紀の軍人皇帝時代になると城壁はさらに厚さが3m増強され、西ローマ帝国滅亡後の数世紀間も、サラゴサを支配した西ゴート人やイスラム教徒によって利用され、都市の領域を形成していた。
現存しているのは2箇所。うちひとつは北西部分。スーダの塔の近く、セサル・アウグスト(Cesar Augusto)通りに沿って遺構が約80m続いている。もうひとつは北東部分。13世紀に建立されたサント・セプルクロ修道院(聖墳墓教会)の壁の一部になっている。


ローマ城壁の北西部分。外側、セサル・アウグスト通りから。半円形の塔の土台が残る。後方に立っているのは10世紀のイスラム時代の宮殿の一部、スーダの塔。
| MONVMENTA(遺跡) | 21:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
テオドシウスの城壁
Theodosius Surlari

イェディクレから望むテオドシウスの城壁

東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)に築かれた城壁。南側をマルマラ海に、北側を金角湾に面して三角形に海に突き出した天然の要塞コンスタンティノポリスの、唯一の陸側の境界である西側を守る。東西分裂後の東ローマの2代目皇帝テオドシウス2世時代の建造。西暦410年の西ゴート族による“ローマ略奪”の報せを受けて、412年に着工。翌年には完成した。コンスタンティヌスが開都のときに築いた城壁のさらに約1.5km西に、南北約7kmにわたって続く。祖父のテオドシウス1世がマルマラ海に面した郊外に立てた凱旋門が、皇帝用の第一の門(黄金門)として城壁に取り込まれた。
しかし447年に大地震が発生。コンスタンティノポリスでは初代のアヤ・ソフィア(聖ソフィア聖堂)が倒壊した上、完成後わずか30年あまりの城壁も崩れ、防衛のための塔も半数以上が倒れてしまった。ときはまさにフン族に英雄アッティラが登場、蛮族の脅威が現実に東ローマ帝国に迫っていた時期であり、市民16,000人が工事に動員され、たった2か月で城壁を修復。しかも外側にもうひとつの城壁と濠を追加して、防備を完璧にした。
内城壁は厚さ5m、高さ8〜12m。内城壁と外城壁の間に幅15〜20mの通路があり、外城壁は厚さ10m、高さ8.5m+2mの胸壁。濠の幅は20m、深さは現在残っているもっとも深いところで6〜7m。高さ18〜20mの方形の塔が計96基、内城壁と外城壁に交互に55m(50ローマン・フィート)おきに配置され、、その他に小さな秘密扉、一般用と軍事用の城門が各5ずつ、計10門設けられた。
東西交易の要衝コンスタンティノポリスは長い歴史の中で何度となく異国の侵攻を受け、616年と626年にササン朝ペルシア、717〜718年にアラブ(ウマイヤ朝)、813年にブルガリア、864年と904年にロシア、959年にハンガリー、1043年に再びロシア、1391年と1422年にオスマン帝国が攻めてきたが、いずれもテオドシウスの城壁を破ることはできなかった。


テオドシウスの城壁、エディルネ門の近く。
1453年にコンスタンティノポリスを陥落させたメフメト2世は、エディルネ門(旧アドリアノープル門)から街に入場した。


イェディクレから望むテオドシウスの城壁とマルマラ海。
イェディクレ(七つの塔の砦)はテオドシウスの城壁にオスマン・トルコが城壁を継ぎ足して造った要塞。


イェディクレに取り込まれたテオドシウスの城壁の黄金門。


イェディクレから望むマルマラ海。
イェディクレにはイスタンブールのシルケジ駅からローカル線で行ける。城壁上にも階段にも手摺がなく、危なっかしい。
| MONVMENTA(遺跡) | 12:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
ユピテルの記念柱

Jupitersaule


属州ゲルマニア・スペリオルの州都であったマインツ(古名モゴンティアクム)にある皇帝ネロに奉献された記念柱の復元。オリジナルの遺物は州立博物館にある。1905年、古代には商業地域であったノイシュタット(新市街)地区で、2000個を超える破片が発見された。原型は高さ9m超。基壇の碑文から、マインツの商人が皇帝の安寧を祈願して寄贈したものと判明した。28枚のレリーフにはローマの神々だけでなくゲルマン人の神々も並んで描かれており、もともと頂上には雷神ユピテルの彫像が立っていた。
しかしのちにネロはローマの大火を引き起こした暴君ととみなされ、国家の敵として断罪、死後は侮蔑される存在となった。そのためネロに捧げられたこの記念柱もバラバラに破壊されてしまったと考えられている。頂上に立っていたユピテルの像も粉砕され、現在では足と手の指、そして手に握られていた稲妻の断片しか残っていない。

| MONVMENTA(遺跡) | 10:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
ポルタ・ニグラ

Porta Nigra


ローマ時代はアルプス以北の最重要都市であったトリーア(古名:アウグスタ・トレウェロルム Augusta Treverorum)に残る市壁の北門の遺跡。ドイツ国鉄の駅から市街に徒歩で向かうと、最初にこの城門をくぐることになる。ポルタ・ニグラ=黒門の意味で、これはもともと灰色だった砂岩の表面が経年劣化で黒くなってしまったことから。建造は西暦180年頃。製粉所の水車の動力を利用した青銅の鋸で巨岩を切り出し、漆喰(モルタル)を用いずに積み上げた。石材のうち最大のものは、重さ6トンもあるという。積石の均衡を保つため、鉄製のかすがいを打ち込んで鉛で溶接したが、中世になると鉄は再利用するために掘り出され、現在では錆跡のある穴だけが残っている。
同じトリーアにあるローマ遺跡でも、円形闘技場は中世に採石場となり本来の姿を消してしまったが、ポルタ・ニグラは1028年からギリシアの修道士シメオンが東の塔に隠者として棲みつき、1034〜35年の死後、門内に埋葬されのちに聖人とされたため、シメオンに捧げた教会に転用されることとなって石材の持ち出しは免れる。そして1804年〜19年、ナポレオンの命令で後世の増築物はほとんど撤去され、再びローマ時代の姿を取り戻した。


ポルタ・ニグラの模型
(サン・ジェルマン・アン・レー/考古学博物館)


ローマ時代のトリーアの都市模型
(トリーア/ライン州立博物館)
左下がポルタ・ニグラ


シメオン教会となったポルタ・ニグラの図
(現地の説明板より)





| MONVMENTA(遺跡) | 10:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
円形闘技場(ルッカ)

Piazza dell'Anfiteatro


トスカーナ州の都市ルッカにあるローマ時代の円形闘技場の遺跡。といっても、本体の構造は後世ほとんど住宅に置き換えられてしまい、現在は楕円形の形状だけが残る「円形闘技場広場(Piazza dell'Anfiteatro)」となっている。19世紀の調査で発掘された碑文によると、皇帝クラウディウスの治世(西暦41年〜54年)に着工、ウェスパシアヌスに始まるフラウィウス朝時代(西暦69年〜)に完成。他の都市の円形闘技場と同じく、ローマ時代は街のはずれに立地していた。建設資金は富裕な市民の寄付で成されたという。54基のアーチに囲まれており、客席の収容人数は約10,000人だった。
西ローマ帝国滅亡後の中世になると、ルッカの円形闘技場も、ニームアルルなど、他の多くの都市の円形闘技場と同じ運命をたどる。東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝の治下、宦官ながら有能な軍人であった司令官ナルセスが当時イタリア半島を支配していた東ゴート王国を攻略したとき、ルッカの円形闘技場は外周のアーチを塞がれ、堅固な要塞に改造された。そして軍事施設としての役目を終えると、今度は壁体が建設資材として持ち去られ、跡地には住宅が建設されていく。それらはのちに火薬庫、塩の売店、グロッテ(洞窟)と呼ばれる監獄、そして商店・飲食店へと転用されていった。かつて剣闘士たちが死闘を繰り広げた中央のアリーナは、一時期は野菜畑になっていたという。19世紀になると、ルッカの建築家ロレンツィオ・ノットリーニ(Lorenzo Nottolini)が遺跡を取り囲んでいた増築物を撤去して楕円形の形状を復元、広場となって現在に至る。


ローマ時代の入場門のひとつ。地盤が古代から2mほど上がっているため、アーチが低くなっている。建物には普通に人が住んでいる。


「グイニージの塔」
ルッカに残る中世の塔。屋上に樹木が生えている。ここから円形闘技場広場を遠望できる。


グイニージの塔から眺める円形闘技場広場


円形闘技場広場の空撮
(ポストカード)

| MONVMENTA(遺跡) | 22:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
マッジョーレ門

PORTA PRAENESTINA


旧名プラエネスティーナ(プレネスティーナ)門。カリグラが着工していたクラウディア水道とアニオ・ノウス水道という2本の上水道を完成させたクラウディウスが、西暦52年、上下2段構造の水道橋がプラエネスティーナ街道とラビカーナ街道の交差点をまたぐ位置に、白のトラヴァーチン大理石で建立した凱旋門のような二連アーチ門。横から見ると、門の上部が二段重ねの導水路になっていたのがわかる。現在残っている碑文には、建造者のクラウディウスの他、ウェスパシアヌスティトゥスの父子皇帝が門を修復したことも讃えている。ローマが蛮族の脅威にさらされた3世紀になると、都市外周部の他の建造物と同様、アウレリアヌスの城壁に組み込まれた。
なお門前にある箱型の遺跡は、共和政末期に製パン事業で財を成したマルクス・ウィルギリウス・エウリサケスの墓で、マッジョーレ門より古いもの。共和政〜帝政初期には、有力者の墓は市外の街道沿いに立てられる習慣があった。


上:アニオ・ノウス水道
下:クラウディア水道


マッジョーレ門の復元模型
(ローマ文明博物館)

現在の名称であるマッジョーレ門は直訳すると「大門」になるが、これは後世、近くにあるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂から命名されたと考えられている。とはいえ、マッジョーレ門のサイズも実際に巨大。高さ32mは、コンスタンティヌスの凱旋門の約1.5倍もある。ローマ市内には他に有名な遺跡が数多くあるため知名度は低いが、周辺に残る水道橋の遺構と合わせて、他の都市にあったら間違いなく第一級の観光名所にされていただろう。


街道の敷石の跡が残っている。


マッジョーレ門から伸びる水道橋


マッジョーレ門から伸びる水道橋


車窓から見えたマッジョーレ門

| MONVMENTA(遺跡) | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |