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古代ローマについて
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タブーラ・ペウティンゲリアーナ

Tabula Peutingeriana

タブーラ・ペウティンゲリアーナの複製
(アウクスブルク/ローマ博物館)

ローマ帝国の街道網を表した地図として、現在知られている唯一のもの。ただし現存しているのは中世の写本。アウクスブルク出身の人文学者コンラート・ポイティンガーが公開したため、ポイティンガーの図表(Peutinger table)と呼ばれる。原本は5世紀に製作(または改訂)されたものと考えられている。
羊皮紙を横に11枚連結した高さ34cm×全長6.75mの巻物で、数多のローマ植民市と街道、河川、山脈、要塞、温泉、そして海などが描かれているが、都市と都市を結ぶ公道(cursus publicus)の位置関係と距離を示した旅行者用の地図のため、地形は正確ではなく、東西に長くデフォルメされている。現在で言えば鉄道の路線図のようなものか。ローマ帝国の領土であったヨーロッパ、北アフリカ、中近東の他、東方はペルシア、インド、タプロバニー島(スリランカ)や中国の一部らしき所まで含み、インド南西岸にあったローマとの貿易港ムジリスのアウグストゥス神殿も記載されている。帝国の三大都市であるローマ、コンスタンティノポリス、アンティオキアは特別な装飾で記号化され、小都市は二軒の家で描く。文字だけで図のない街もある。西端にあったはずの12枚目が散逸しているため、イベリア半島やブリテン島が欠けているが、1898年に復元想像図が追加された。
西暦402年に西ローマ帝国の首都となったラヴェンナが強調表示されていることや、5世紀なかばに蛮族に破壊された属州ゲルマニア・インフェリオルのいくつかの都市が記載されているため、製作は5世紀前半と考えられる。反面、79年にヴェスヴィオ火山の噴火で消滅したポンペイの街が残っていたり、属州アラビアの区分が当時にしては古すぎることなどから、原型は帝政初期、アウグストゥスの腹心の軍人マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ(前63年〜前12年)が製作した地図であり、時代を追って改訂・更新されたものという説もある。アグリッパの死後、その地図は大理石版に刻まれ、アラ・パキスの近くのウィプサニアエ柱廊に設置されていたという。
13世紀にアルザス地方コルマールの修道士が書き写した地図は、のちにウォルムスの蔵書庫で人文学者コンラート・セルテスが発見、1508年にポイティンガーに遺贈され、広く世に知られることとなった。現在はウィーンのオーストリア国立図書館に保存されているが、アウクスブルクのローマ博物館やシュパイヤーのプファルツ歴史博物館にも複製が展示されている。


ローマとその外港オスティア


コンスタンティノポリス
コンスタンティヌスの記念柱が描かれている。


アンティオキア


ラヴェンナ


現在の南仏〜ドイツ西部
陸路用の地図のため、地中海は川のように狭い。


ルテティア(パリ)
文字だけで図はない。


ロンドン
左側の白黒部分は想像復元図。

| MVSEION(博物館) | 10:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
ノイマーゲンのワイン船

Neumagener Weinschiff

『ノイマーゲンのワイン船』
(トリーア/ライン州立博物館)

ドイツ西部、トリーア近郊の街ノイマーゲン・ダロンで、1878年に発見されたローマ時代のワイン運搬船の石造彫刻。製作年代は西暦220年頃。片側22本の櫂を備えた獣頭のガレー船にワイン樽が満載され、6人の漕ぎ手と2人の収税史が乗船している。トリーアやノイマーゲン・ダロンがあるモーゼル川流域はワイン(モーゼル・ワイン)の産地として有名だが、古代ローマ時代からすでに当地のワインが輸出品になっていたことがわかる。
ノイマーゲン・ダロンでは2007年に40万ユーロを費やしてこのワイン運搬船を復元。竜骨と肋材にはオーク、外板にはカラマツ、甲板と柵にはベイマツ、帯にはトウヒと松、獣頭にはリンデンバウム(西洋菩提樹)といった原生林の木材を用い、サイズは全長17.95m・全幅4.20m・全高3.90m・重量14トン。両舷22本の櫂によりモーゼル川を時速約10ノット=時速18kmで航行可能だという(ただし観光用のクルーズ船でもあるため、ディーゼルエンジンも搭載しているらしいが・・・)。

| MVSEION(博物館) | 10:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
バルベリーニのトーガ像

Togato Barberini

『バルベリーニのトーガ像』
(モンテマルティーニ美術館)

紀元前1世紀〜後1世紀頃の高さ165cmの大理石の立像。頭部はオリジナルではなく後世追加されたもの。『トーガを着たバルベリーニ』とも。ただしバルベリーニとはこの作品を所有していたイタリア貴族の家名で、モデルの人名は不明。初代皇帝アウグストゥスが国家の正装として再制定したトーガ(トガとも表記)を丁寧に着こなし、カルケウス(calceus)という外出用の高級靴を履いていることから、元老院階級の人物とわかる。両手にはイマギネス(imagines)と呼ばれる先祖の彫像を抱えている。これは父と祖父であろうと推測されている。
執政官や法務官、検察官などを輩出したことがある上流階級の一門は、栄達を遂げた先人の生前の顔形を精巧に模した彫像を、親族の葬儀の場に参列させる特権、ユス・イマギニス(ius imaginis)を認められていた。それらは平時は邸宅の中庭に飾られ、客人などに披露されたという。古代ローマの彫刻芸術はギリシアの影響を大きく受けているが、故人の生き写しの彫像をこのように活用するのはローマ独自の文化だった。
紀元前1世紀頃には、軍人マリウスや弁護士キケロのように、無名の家系から実力で立身出世したノウス・ホモ(Novus homo)=新人と呼ばれる人物も多く現れたが、この『バルベリーニのトーガ像』のモデルとなった人物は、両手に先祖の彫像を大事に抱えていることから、由緒ある名門の家系に属していたのだと考えられる。

| MVSEION(博物館) | 22:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
インスラ(共同住宅)

INSVLA

オスティアのインスラの復元模型
(ローマ文明博物館)

古代ローマの高層集合住宅。現在の日本でいうマンションにあたる。語源はラテン語の「島」から、四方を道に囲まれた街区→共同住宅という意味になった。富裕層が所有していたドムス(一戸建)やウィラ(郊外の別邸)に対し、庶民が賃貸で住んでいたのがこのインスラだった。4世紀頃のローマ市には、1,797戸のドムスと46,602棟ものインスラがあったという。通りに面した1階はだいだい商店で、2階以上が住宅。主に木材とレンガで造られ、中下層階級用の建物のため手抜き工事が多く、たびたび倒壊したり、火災が発生したりした。水道は1階にしかないため、(また、当たり前だがエレベーターもないため)上の階ほど家賃は安かった。カエサルポンペイウスとともに第一次三頭政治の一角となった共和政末期の有力者クラッススは、火災があると延焼の可能性がある近隣のインスラを家主から安く買い叩き、財を成したといわれる。


オスティアのインスラの復元模型
(ローマ文明博物館)
現在のヨーロッパにあっても違和感はない。

西暦64年に発生したローマの大火の後、皇帝ネロは区画整理を実施。すでにアウグストゥスの時代に70ローマン・フィート(約20m)に制限されていたインスラの高さを、さらに60ローマン・フィート(約17m、6階建くらい)に定めた。また以前は増築された部分が道路の上に突き出ていたのを、道幅を広げて正面に柱廊を設けさせ、延焼防止のために建物の間隔を確保した。もっともそのため通りを歩いていると夏場は直射日光をもろに浴びることになり、「昔の方がよかった」と不平を洩らす者もいたという。


オスティア・アンティカ、ディアナの家
Casa di Diana


オスティア・アンティカ、セラピスのインスラ
Insula del Serapide


ローマ、アラコエリ(アラチェリ)教会下のインスラ
Insula dell'Ara Coeli
カンピドーリオの丘の北側斜面の下にある。首都の中心部だが、ローマ時代は貧民階級の地区で、一度は沈静化した64年の大火が再炎上したのはこのあたりから。


現在の遺跡は2世紀のもの。当時の1階は現在では地下。中世には教会に転用されていたため、一部に宗教画が残っている。

| MVSEION(博物館) | 12:36 | comments(2) | trackbacks(0) |
ピルム(投槍)

PILVM

ピルムを手にするローマ軍団兵の人形
(ヴォルムス/歴史博物館)

古代中国では、弩(クロスボウ)が早くから発達していたためか、兵器としての投槍という概念はなかったらしく、棒の先端に刃を付けた武具には「槍」の他、「矛」「戈」「戟」などがあるが、いずれも手に持って突いたり振り回したりするもので、投槍を意味する漢字はない。西洋では、古くからオリンピック競技の定番であったように一般的な兵器であり、槍と投槍は、ラテン語のハスタ(hasta)とピルム(pilum)、英語のスピア(spear)とジャベリン(javelin)というように、それぞれ独立した単語が当てられ、構造もまったく別物である。古代ギリシアの代表的な戦術として、サリッサという長槍を針ネズミのように構えたファランクスが有名だが、ローマの代表的な兵器のひとつは投槍のピルムだった。
全長は2m位。鉄製の穂先は軸が長く、極細の形状になっていた。これは敵の盾を貫通したときに、ぐにゃりと折れ曲がって引き抜けないようにし、盾を捨てざるを得ないようにするため。重量の異なる2本を装備して、接近してくる敵の距離に応じて投げ分けた。かつては穂先は鉄の釘で柄にしっかり固定されていたが、ローマの軍政改革で有名なマリウスがゲルマン人の一派キンブリ族との戦いで改良。敵に当たったり、外して地面に落ちた後に拾われて投げ返されることを防ぐため、命中の衝撃でわざと先端が外れるよう、木製のピンで留めるだけにしたという。


ローマ時代の兵器の復元
(アウクスブルク/ローマ博物館)
上がピルムの穂先。左にも立てかけてある。

| MVSEION(博物館) | 12:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
ローヌ川の舟橋

Le pont de bateaux sur le Rhone

ローヌ川の舟橋の1/100模型
(古代アルル博物館)

複製模型が充実している古代アルル博物館の展示品のひとつ。舟を連結して橋にする技術は多くの古代の歴史家によって言及されているが、ほとんどはトラヤヌスの記念柱やマルクス・アウレリウスの記念柱の基部に描かれているような軍用の架設橋であり、南仏の植民市アレラーテ(アルル)は常設の舟橋があった珍しい例である。船首の高い河川用の平底船を並べて、錨で流れに固定。両端の4隻ずつを水中に建てられた繋柱に結び留め、丈夫な梁に支えられた甲板で連結した。河岸にある石造の橋台との接点は、海からローヌ川を遡上してルグドゥヌム(リヨン)に向かう大型船を通せるように、跳ね橋になっていた。固定の橋があると航路が断絶してしまい、はしけで川を下ってきた荷物を外海用の船に積み替えたり、逆に地中海から航行してきた大型船から河川交通用の船に移し替える必要があったからである。一部が跳ね橋になっているなら中央は舟橋にする必要はない気もするが、超大型船が通過するときには片側にずらして調整したのかも知れない。
アルルでは、2008年にもローヌ川の川底から世界最古と見られるユリウス・カエサルの胸像や、3世紀初頭のものと見られる海神ネプチューンの彫像が発見されるなど、古代から河川交通が盛んだったことがわかっている。


帝政後期のアルルの1/1000模型
(古代アルル博物館)


現在のアルルを流れるローヌ川

| MVSEION(博物館) | 13:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
カピトリーノのブルートゥス

Bruto capitolino

『カピトリーノのブルートゥス』
(カピトリーニ美術館)

高さ32cm(ルネサンス時代製作の胸部を含めると69cm)の前4世紀〜前3世紀のブロンズ像。1564年にピウス・ダ・カルピ枢機卿によってカピトリーニ美術館に寄付された。古くから存在は知られており、オランダの画家マールテン・ファン・ヘームスケルク(Maarten van Heemskerck)が1532〜36年のローマ旅行時に描いたスケッチが現存している。古代のブロンズ像は武器として溶かされてしまうことが多かったため、共和政ローマ初期までさかのぼる遺物は希少。不自然に左右非対称に歪んでいるのは、もともとは等身大の全身像の頭部で、やや斜め上を向いていたためだという。頭髪や鬚はテラコッタを用いて成型したと思われ、突き刺すような視線が印象的な両目は、眼球は象牙、瞳はカーネリアン(紅玉髄)で造られている。



この像のモデルは、前509年にローマ初代の執政官になったルキウス・ユニウス・ブルートゥスであると昔から信じられていた。フランス革命の後、1796〜97年にイタリアに遠征して勝利したナポレオンは、王政を打倒して共和政を創始した英雄の像ということで、休戦の条件としてこの『カピトリーノのブルートゥス』をフランスに引き渡すことを要求した。しかし最近の研究では、特定の個人ではなく、前4世紀のアッティカ美術の影響を受けた理想の男性像を表現した作品であり、政治家や軍人を顕彰するために都市のフォルム(公共広場)に置かれた立像のひとつだという説もある。その場合、身に着けているのはトーガではなく、軍装だった可能性もあるという。

| MVSEION(博物館) | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
グランデ・ルドヴィシの石棺

Sarcofago Grande Ludovisi

『グランデ・ルドヴィシの石棺』
(ローマ国立博物館アルテンプス宮)

共和政期から帝政初期のローマの上流階級では、死者は精巧な装飾を前面に施した墓廟(mausoleum)に埋葬され、一般にも公開された壮麗な葬送式典を開催して弔われていた。アウグストゥス霊廟やハドリアヌス霊廟(サンタンジェロ城)といった歴代皇帝の墓だけでなく、ガイウス・ケスティウスの墓(通称ピラミデ)、チェチーリア・メテッラの墓、ルカヌス・プラウティウスの墓など、ローマとその近郊には現在でも大型のマウソレウムの遺跡を見ることができる。しかし2世紀になると、次第にそうした慣習に変化が表れ始め、葬儀は近親者のみで執り行われることになり、死者はレリーフを刻んだ石棺に葬られることが多くなった。このような石棺は、のちにローマ美術の主要なジャンルのひとつとなる。表面に浮き彫りにされるのは、アキレスやメレアグロスなどギリシア神話の英雄であることもあったが、故人の徳や業績を称える題材が描かれることもあり、狩猟の石棺、美の女神の石棺、そして戦いの石棺などに分類される。
ローマやアテネ、小アジアのドキメイオンなどで製作されていたこれらの石棺美術の中でも最高傑作のひとつが、ティブルティーナ門(現サン・ロレンツォ門)近くの墓地で1621年に発掘されたグランデ・ルドヴィシと呼ばれる石棺。3世紀の作品で、高さ1.5m、幅2.3m、奥行き1.3m。蓋は失われている。
題材は、ローマ人と蛮族との戦闘。一見すると無秩序な乱戦のように思えるが、よく見ると描かれている人物には必ず対となる人物が配置されており、右側でトランペットを吹く兵には左側の角笛を吹く兵が、両端上部には戦利品を掲げるローマ兵がそれぞれ呼応している。下半分には粗い髪とあごひげで未開性を強調された蛮族の死傷者たちが描かれ、生き残っている者は降伏を求めているようにも抵抗を続けているようにも見えるが、いずれにせよ崇高なローマ人に反抗した末路は明白な敗北である。そして中央上部には、遠くを見つめ、まるで戦場とは別次元にいるかのような青年司令官が、軍馬に跨って勝利を得た証に右腕を差し出している。額には×印が彫られており、これは当時ローマ軍人の間で流行していたミトラ教に入信した証であるともいう。
石棺に埋葬されたこの若者が誰であるか正確には不明だが、軍人皇帝時代の皇帝デキウスの息子ホスティリアヌスか、同じくデキウスの息子ヘレンニウス・エトルスクスであるという説が一般的。ホスティリアヌスの死因は疫病だが、兄のヘレンニウス・エトルスクスは、共同皇帝として父とともに遠征したアブリットゥスの戦いでゴート族に敗れて戦死しており(父のデキウスも戦死して、ローマ史上初めて外敵との戦闘で死んだ皇帝となった)、石棺に描かれた華やかな軍事的成功とは裏腹な最期であったというのは皮肉である。

| MVSEION(博物館) | 21:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
スキッソール(切断剣闘士)

SCISSOR

スキッソールのイラスト
ニームの円形闘技場内の展示)

刃物が装着された籠手を武器とする異色の剣闘士。ローマ帝国東方の地中海沿岸で発見されたレリーフに姿が描かれているだけで、詳しいことは分かっていない。片手にはローマ軍団兵の武器でグラディアートル(剣闘士)の名の由来ともなった両刃剣グラディウスを持ち、もう一歩の手は籠手を兼ねる金属製の円筒にすっぽり収めている。円筒の先端には、ギリシア語で“靴屋のナイフ”を意味するアルベロス(arbelos)という半月形の刃が装着されており、籠手の内部にある把手で回転させることができたとも考えられている。上記のイラストでは、胴にはロリカ・スクアマタ(lorica squamata)という鱗状の小札鎧を、左腕には腕甲マニカ(manica)を着用。レリーフに残された図ではレティアリウス(投網剣闘士)と対戦していることが多いらしく、半月形の刃は網を切断するために用いられたのかも知れない。ローマ時代にはマイナーだった剣闘士のはずだが、個性的な武器のためか、現代のフィギュアや再現イベントの世界ではなかなかの人気者のようである。

| MVSEION(博物館) | 22:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロリカ・セグメンタタ(板金鎧)

LORICA SEGMENTATA

ロリカ・セグメンタタ
(アウクスブルク/ローマ博物館)

ローマ兵の防具の一種。分割(セグメント)された鎧、という意味のラテン語だが、この呼称は後世のもの。湾曲させた鉄板を革紐で連結させた防具で、戦闘時以外は胴の前後と両肩の四つにばらして折り畳むことができた。考古学上の調査では、少なくとも前9年には開発されていたという。初期型のものは真鍮の留金や鉤、蝶番などが付いた複雑なものだったが、1世紀後半からは部品が簡略化されていった。
トラヤヌスの記念柱には、正規の軍団兵(レギオナリウス)がこのロリカ・セグメンタタを着用して長方形の大盾スクトゥムを構えているのに対し、補助部隊(アウクシリア)の兵士は革の胴鎧に楕円形の盾を持つ、と描き分けられているため、投槍(ピルム)と同じくロリカ・セグメンタタもローマ市民権のある軍団兵にのみ支給されたという説もあるが、補助部隊しか配置されていなかったはずの基地の跡からロリカ・セグメンタタの遺物が発掘されたこともあるなど、真偽は定かではない。


トラヤヌスの記念柱の複製
(ローマ文明博物館)

いつ頃まで使用されていたかについても諸説あるが、近年のスペインでの発掘調査から、3世紀までは確実視されている。4世紀に建造されたコンスタンティヌスの凱旋門にもロリカ・セグメンタタを着用した兵士の姿が見えるが、この凱旋門は五賢帝時代の彫刻を再利用して組み立てられているため、当時の兵士が使用していた証拠にはならない。防御力は高いが、費用がかさむ上に、ひとりでは着脱できず、しかも重い(推定7〜9kg)という欠点もあるため、軍の主力が密集隊列の歩兵から騎兵部隊へと変化したローマ帝国後期には廃れていったと思われる。


コンスタンティヌスの凱旋門のレリーフ
ロリカ・セグメンタタを装着したローマ軍団兵


バースの街角にて

| MVSEION(博物館) | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) |