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古代ローマについて
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ボウディッカと娘たち


トーマス・ソーニクロフト
『ボウディッカと娘たち』
(ロンドン/ウェストミンスター橋)
Thomas Thornycroft
"Boadicea and her Daughters"
1905

現代英語の発音でブーディカとも。フランス(ガリア)のウェルキンゲトリクス、ドイツ(ゲルマニア)のアルミニウスと並び、強大なローマ帝国に反旗を翻した英雄の一人。西暦43年のクラウディウスによる親征のあとも、ブリテン島東部に居住していたケルト人のイケニ族はローマと同盟関係を結び、独立を認められていた。しかし続くネロの治世、王のプラスタグスが亡くなると、行政長官カトゥスの贅沢三昧の生活で財政難になっていた当地のローマ人は、遺言を無視して財産や土地を没収、王妃のボウディッカを鞭で殴り、娘たちを凌辱するという蛮行の限りを尽くした。圧政に耐えかねたイケニ族は、自由の奪回を狙っていた他の部族とともに反逆の狼煙を上げ、鎮圧に急行した第九軍団ヒスパナを返り討ち、歩兵を全滅させる。ローマ人は一時はロンディニウム(ロンドン)防衛を放棄さざるを得ないほどの苦境に立たされたが、反乱勃発時には辺境遠征のため不在にしていたブリタニア総督スエトニウスは、第十四軍団ゲミナと第二十軍団ウァレリア・ウィクトリクスの2個軍団を再編成して反撃に出る。決戦(ワトリング街道の戦い)を前に、ボウディッカは娘たちを同乗させた戦車を駆って同志たちに訴えた。
「私は王家と富のために戦うのではない。人民のひとりとして、奪われた自由と、鞭で打たれた体と、凌辱された娘たちの貞節のために復讐するのだ。ローマ人の情欲は、もう私たちはおろか、誰も残らず辱めずにはおかないまでに烈しくなった。この戦いにはどうしても勝たなければならない。これはひとりの女としての決心だ!」
しかし相手のスエトニウスは、当代の名将コルブロの好敵手と目されたほどの軍人。地形を利用した巧みな戦術と、投槍(ピルム)などの兵器で、数的には二十倍ともいわれる反乱軍を殲滅、ブリテン島の"平和"を回復した。敗れたボウディッカは、毒を飲んで自害したという。
中世には忘れられた存在になっていたボウディッカだが、近代になるとイギリスの民族的英雄としてにわかに注目されるようになる。ルネサンス時代にはギリシア・ローマの地中海文化が至上とされていたのが、英・仏・独が西欧の大国として台頭してくると、それぞれボウディッカ、ウェルキンゲトリクス、アルミニウスというローマ時代の反逆者が自国の偉人として再評価されるようになったのは偶然ではないだろう。特にボウディッカは、名の由来がケルト語の「勝利」にちなむという説から、同じ意味のヴィクトリア女王の時代にもてはやされ、夫のアルバート大公の依頼によって、ウェストミンスター橋のたもとに彫刻家トーマス・ソーニクロフトの作品『ボウディッカと娘たち』が飾られることになった。


映画『ベン・ハー』にも登場する車輪に刃のついたチャリオットに騎乗している
(考古学的には正しくないらしい)

| PICTVRA(美術作品) | 13:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハンニバル


セバスティアン・スロッツ
『ハンニバル』
(ルーヴル美術館)
Sebastien SLODTZ
"Annibal"
1687-1688

フランスの彫刻家セバスティアン・スロッツによる高さ2.5mの大理石像。ローマ史上最強の敵ハンニバルが、カンネーの戦い(前216年)で葬ったローマ貴族の指輪を数えている場面だという。
当時地中海に多かった交易都市と違い、文化的には遅れた農業国だったローマには、むしろそのために尚武の気風が強く残っており、組織された市民兵によるローマ軍団は戦えば勝ち、領土を拡大していった。そこに現れたのがこのハンニバル。第一次ポエニ戦争で祖国が敗れた屈辱を胸に育ったカルタゴの名将は、象部隊を率いて厳寒のアルプスを越え、北からイタリア半島を攻略。たびたびローマ軍団を壊滅させ、ローマ人を恐怖させた。
騎兵の機動力を活用した包囲殲滅作戦で有名だが、配下の兵の忠誠心を考慮して陣形を組んだり、かまどの煙を利用して敵に兵力を誤認させるなど、孫子の兵法のような策にも長けていた。決戦の前日には、捕虜同士に生き残りを賭けた剣闘士試合を演じさせて兵たちに見せ、「死にたくなければ、明日はおまえたちもこのように戦え!」と士気を鼓舞することもあったとか。
ローマ人にとっては恐怖の代名詞ともなる敵であったが、後世には英雄視されるようになり、現在セバスティアン・スロッツの『ハンニバル』は、ルーヴル美術館のピュジェの中庭に、ニコラ・クストゥーの彫刻『ユリウス・カエサル(ジュール・セザール)』と対になって飾られている。


ローマ軍の武具を足元に踏みしめ、SPQRと書かれた銀鷲旗を逆さまに立てている


説明文のフランス語ではアンニバル(Annibal)
イタリア語ではアニバーレ(Annibale)

| PICTVRA(美術作品) | 23:35 | comments(1) | trackbacks(0) |
セネカの死


ルカ・ジョルダーノ
『セネカの死』
(ルーヴル美術館)
Luca GIORDANO
"La Mort de Seneque"
1684-1685

名作映画『ゴッドファーザーPartII』の終盤に、ドンを裏切って当局保護下の重要参考人となった元幹部フランクのところへ、ファミリーの相談役トム・ヘイゲンが面会に訪れる場面がある。軟禁場所である軍の基地内で、互いにマフィアの古き良き時代を回顧するうちに、トムは「そういえば、君は歴史に詳しかったな」と、ローマ帝国について語り始める。「皇帝に謀叛を企てた者でも、機会は与えられた。自決をすれば、家族の安全は保障される」「そうだ、浴室で手首を切って失血死するんだ。最後に友人たちを招いてパーティーをする者もいた」と、フランクも話を合わせた。真意が伝わったことを悟ったトムは、面会を終わらせて去っていく・・・
もしかしたら、二人が思い描いていたのは、暴君ネロに仕えたセネカの最期だったのかも知れない。現在のスペイン、コルドバ出身の哲学者だったセネカは、アグリッピナによって少年時代のネロの家庭教師に招かれ、ネロが皇帝に即位すると側近となったが、のちに陰謀に加担していたとして自害を命じられる。セネカは友人たちに囲まれて哲学について語った(バロック後期のイタリア人画家ルカ・ジョルダーノの作品はこの場面を描いている)あと、手首を切って、さらに毒を飲んだが死にきれなかったため、最後は浴室で血の巡りを良くして失血死したという。妻のパウリーナもともに自殺しようとしたが、それを聞いたネロは兵士を急行させてパウリーナを救出した。暴君ネロも、「自決をすれば、家族の安全は保証される」という掟は守ったのだった。


ジャン・ジョゼフ・タイヤソン
『セネカの妻パウリーナの蘇生』
(ルーヴル美術館)
Jean Joseph TAILLASSON
"Pauline, femme de Seneque, rappelee a la vie"
1793

| PICTVRA(美術作品) | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
ホラティウス兄弟の誓い


ジャック・ルイ・ダヴィッド
『ホラティウス兄弟の誓い』
(ルーヴル美術館)
Jacques-Louis DAVID
"Le Serment des Horaces"
1784

誰もが教科書などで見たことがあるであろう、新古典主義の巨匠ダヴィッドの代表作。縦3.30m×横4.25mと、シンプルな構図の割にはサイズが大きい。リウィウスの『ローマ建国史』に記述され、17世紀の詩人コルネイユによって劇作化された伝説が題材になっている。
建国王ロムルスの没後もローマは拡大を続け、3代目の王トゥルス・ホスティリウスの治世には、ついにロムルスの故郷アルバ・ロンガとも干戈を交えることになった。しかし戦況は膠着、両国は全面衝突することを避けるため、互いに三人の戦士に国を代表して闘わせ、決着を付けることにする。ローマからはホラティウス家の三兄弟が決闘に志願、自分たちには勝利か死かのいずれかしかないことを父の前で誓った・・・というのがこの作品の場面。
右腕を水平に差し出すローマ式敬礼(のちにナチスドイツに模倣された)をする勇ましい三兄弟に対し、画面右の女たちは泣き崩れている。三兄弟の妹カミッラは実はアルバ・ロンガ代表の戦士クリアティウス三兄弟の一人と婚約しており、さらにホラティウス家の長兄の妻サビーニはそのクリアティウス家から嫁いできたのであった。つまりどちらが勝っても、彼女たちは大切な家族を喪うことになるのだ。
決闘は序盤はローマが劣勢、ホラティウス三兄弟の二人まではアルバ・ロンガの戦士に殺されたが、残る一人プブリウスは逃げると見せて追ってきた敵を一人ずつすべて倒し、劇的な勝利を得た。しかし帰還した彼は、婚約者の死に泣き崩れている妹を見て逆上、「敵を哀悼するとは何事か!」と刺し殺してしまう。ローマはこの救国の英雄を、殺人者として追放せざるを得なかったという。


カヴァリエール・ダルピーノ
『ホラティウスとクリアティウスの決闘』
(カピトリーニ美術館)
Cavalier d'Arpino
"Combattimento degli Orazi e Curiazi"
1612-1613

| PICTVRA(美術作品) | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
スパルタクス


ドニ・フォヤティエ
『スパルタクス』
(ルーヴル美術館)
Denis FOYATIER
"Spartacus"
1830

フランス新古典主義の彫刻家ドニ・フォヤティエ(オルレアンのマルトロワ広場にあるジャンヌダルク騎馬像の作者でもある)の作品。剣闘士の反乱で有名なスパルタクスは、もとはトラキアの王子だったが敗戦でローマ人の奴隷とされ、のちに剣闘士として売られたと伝えられている。アウグストゥス治世の晩年、トイトブルクの森でローマの3個軍団を壊滅させたゲルマン人アルミニウスの息子トゥメリクスも剣闘士にされて短い生涯を終えたといわれるので、征服した異民族の有力者の子弟を剣闘士にするのは、ローマではよくあることだったのかも知れない。スパルタクスという名の人物は、黒海沿岸のボスポロス王国やポントス王国を支配したトラキア人の諸王にもいるらしいので、このスパルタクスは正真正銘のトラキア剣闘士だったことになる。
カプアの剣闘士養成所に収監されていたスパルタクスは、同志とともに脱走を企てた。剣闘士といえども訓練のときには木製の武具しか与えられないため、最初は包丁や焼串といった台所用品で蜂起して武器を獲得。さらに鎮圧にきたローマ軍を撃退すると、実戦向きでない剣闘士の武器を捨てて正規の軍団兵の装備に持ち替え、以後は当時無敵であったローマ軍団をたびたび敗走させる活躍を見せる。集団での会戦ともなると、兵士個人の身体能力だけではなく部隊ごとの機動性も戦術上重要となるので、スパルタクスは司令官としても優秀だったのだろう。剣闘士となる前は、故郷のトラキアか、あるいはローマ軍の補助部隊(アウクシリア)の一員として、兵法を学ぶ機会もあったのかもしれない。
最後は遺体の判別もつかないほど無残な死を迎えるが、近代になると、スパルタクスは抑圧された身分から自由を求めて立ち上がる闘士の象徴となった。ドニ・フォヤティエの彫刻も、台座に1830年7月29日という日付が刻印され、フランスの7月革命と関連する作品とみなされた。また共産主義の祖カール・マルクスは、自分にとって英雄はスパルタクスであると述べたといい、ドイツ共産党の前身はその名もスパルタクス団(Spartakusbund)である。現在でも、ロシアを始め東欧の旧共産圏にはスパルタクスの名を冠したサッカーチームが多い。

| PICTVRA(美術作品) | 07:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
大教皇レオとアッティラの会見


ラファエロ
『大教皇レオとアッティラの会見』
(ヴァティカン美術館)
Raffaello Sanzio
"Incontro di Leone Magno con Attila"
1514

ヴァティカン美術館のラファエロの間を飾る壁画のひとつ。弟子のジュリオ・ロマーノとの共作と言われる。題材は、大教皇と称されるローマ教皇レオ1世がフン族の王アッティラにローマ侵攻を止めるよう説得したという歴史上のエピソード。修復中だったため、画面左の教皇レオが半分隠れてしまっていた。
中世以降は西ヨーロッパで絶大な影響力を発揮するローマ教皇だが、もともとはローマ司教、つまりローマ市内の教会の長にしか過ぎず、一応「五大司教座」のひとつには挙げられていたものの、当時権威があったのは早くからキリスト教が発展していた東方諸都市の司教たち、特に福音書記者ヨハネの後継者を自認するアレクサンドリア大司教だった。キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝が主宰した公会議にも、ローマ司教は列席していない。帝国西方にあっても、皇帝テオドシウス1世に破門を宣告するなどキリスト教の伸長に貢献したアンブロシウスはミラノ司教であり、ガリア各地の司教を任命していたのはアルル司教のヒラリウスであるなど、ローマ司教の存在感は薄かった。しかしレオが登位する頃には、ローマ司教は筆頭使徒ペテロの後継者であると自称、さらにかつてはローマ皇帝に与えられた権限のひとつであり、キリスト教の普及とともに使われなくなっていた最高神祇官=ポンティフェクス・マクシムス(PONTIFEX・MAXIMVS)の称号を用いて、各地の教会の自立傾向が強かったキリスト教世界における首位権を主張していた。
これだけだと単なる宗教界での権力闘争になってしまうが、レオ1世が偉大だったのは、ラファエロの壁画にも描かれた政治面での功績にあった。アッティラが撤退したのは元老院から充分な和解金を貰っていたからとか、マラリアで兵士が疲弊していたからという説も有力だが、時の皇帝ウァレンティニアヌス3世が首都から退避していた中で、蛮族の王に立ち向かったレオの姿は、当時のローマ市民に皇帝権の失墜と新生“ローマ教皇”の存在感を強くアピールしただろう。そして3年後、今度は北アフリカからガイセリック率いるヴァンダル族がローマに侵攻してくる。軍の最高司令官でもあるはずの皇帝ペトロニウス・マクシムスは、元老院議員たちにローマを捨てて別荘へ避難することを提案、みずから真っ先に逃走しようとしたところを市民に見つかり撲殺された。権力者不在となったローマで、再び立ち上がったのがローマ教皇レオ1世。ガイセリックと交渉して、略奪は容認する代わりに殺傷は避けること、また教会に避難した人々の財物には手をかけないことを約束させた。蛮行(vandalism)の語源となったヴァンダル族の破壊行為で、広場や神殿、公衆浴場の美術品はことごとく略奪されたが、多くの人命が失われることは回避することができた。
レオ1世の死から14年後に西ローマ帝国は滅亡、各地にゲルマン系の王国が群雄割拠する。人口比では大多数を占める旧ローマ帝国市民の民政を担当したのは当時の知識人集団であった聖職者たちであり、諸王国が興亡する中でも、横断的に組織されたローマ・カトリック教会によって西ヨーロッパは単一の文化圏を維持することができた。後世には十字軍や異端審問など、どちらかといえばマイナスの側面が強くなるローマ・カトリック教会だが、社会に影響力を持つようになったのはレオ1世のような偉大な先人たちがいたからであり、歴史上の功績も忘れてはいけないのだと思う。

| PICTVRA(美術作品) | 07:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
民衆を救済するマルクス・アウレリウス


ジョゼフ=マリー・ヴィアン
『民衆を救済するマルクス・アウレリウス』
(アミアン/ピカルディ博物館)
Joseph-Marie Vien
"Marc-Aurele secourant le Peuple"
1765

のちの巨匠ダヴィッドの師でもあり、ローマ遺跡の壁画をモチーフにした『キューピッドを売る女(Marchande d'amours)』などの代表作があるフランス新古典主義初期の画家ジョゼフ=マリー・ヴィアンの作品。哲人皇帝マルクス・アウレリウスの治世は、不作による飢饉やパルティア遠征軍から伝播した疫病によって苦しめられた。一説には当時の人口減少が、ローマ帝国衰退の原因のひとつでもあるという。本作では、映画『グラディエーター』に登場する晩年の姿とは違い、まだ若さの残るマルクス・アウレリウスが元老院議員や兵士らとともに市民にパンを配る場面が描かれている。
しかしサロンに出品されたこの絵画は、美術評論でも有名な啓蒙思想家ディドロによって酷評された。「飢饉に苦しんでいるなら骨と皮だけになっているはずだが、女性や子供は皆まるまると肥っている」「マルクス・アウレリウスの顔が無表情なので、市民の救済に無関心に見える」……などなど。確かに、この批判は当たっているような気がする。美術館で最初に見たときは、困窮する市民を救済しているのではなく、単にパンとサーカスの一環として、ローマ市民が働かなくてもいいように食料の無償配給をしているだけかと思ってしまった。まあ、ときにはこういった凡作があるからこそ、名作の素晴らしさが引き立つということだろう。辛口のディドロも、ジョゼフ=マリー・ヴィアンの他の作品については賞賛している。

| PICTVRA(美術作品) | 08:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
ウェルギニアの死


ギヨーム・ギヨン・ルティエール
『ウェルギニアの死』
(ルーヴル美術館)
Guillaume Guillon Lethiere
"la Mort de Virginie"
1828

共和政ローマのお家芸とも呼べる平民と貴族の対立を描いた作品。『コリオラヌスの前のウォルムニアとウェトゥリア』『ファレリの教師を生徒らに引き渡すカミルス』では、どちらかと言えば目先の私利私欲しか考えない平民のほうに非がある印象だが、このエピソードは完全に貴族が悪者。
前452年、国力の拡大したローマでは、先進国ギリシアに習って新たな法律を制定することになり、十人委員会が組織された。しかしその長となった名門貴族のアッピウス・クラウディウス・クラッススは、典型的な悪代官だった。美しい町娘ウェルギニア(ウィルギニアとも表記)に惚れたアッピウスは、愛人となるよう彼女に強いるが、すでに婚約者がいたウェルギニアは拒絶。するとアッピウスは、自分の奴隷の一人がウェルギニアを娘として認知したという訴訟を起こした。当時は奴隷はその子供も含めて主人に属するとされた時代、つまりウェルギニアはもともとアッピウスの所有物であるという主張だ。
戦地にいた父のウェルギニウスは娘の危機を聞いて首都ローマに帰還。しかし裁判は、名門貴族のアッピウス・クラウディウスに有利なように進んでいた。ウェルギニウスはせめて娘と一言だけでも話をさせてほしいと願い出て許されると、「おまえの自由を守るには、こうするしかない!」と叫んでウェルギニアを刺し殺し、「この血がおまえを破滅に導くぞ!」とアッピウスに詰め寄った。これを機にローマでは平民の暴動が勃発、悪代官アッピウス・クラウディウスは投獄されて死を迎える。世界史の教科書にも登場する十二表法の制定と同時進行で起こっていた悲劇であった。
新古典主義時代のフランスの画家ギヨーム・ギヨン・ルティエールは、あまり有名ではない(?)ようだが、ルーヴル美術館ドゥノン翼の第76室に展示された7.7m×4.5mのこの大作は、息絶えて血の気のないウェルギニア、左手で娘の遺体を指しながら右手に短剣を掲げるウェルギニウス、あくまで傲慢な態度を崩さないアッピウスなど、登場人物が劇的に描かれた名画だと思う。ただ、壁の上のほうに展示されているため、天井の明かりが映り込んでうまく写真に撮れなかったのが残念だった。フォロ・ロマーノの壇上に立つアッピウス・クラウディウスの背後には、古代ローマの象徴であるSPQRの四文字と、定番の『カピトリーノの牝狼』の像も見えている。

| PICTVRA(美術作品) | 08:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
正義に振り返るトラヤヌス


ノエル・コワペル
『正義に振り返るトラヤヌス』
Noel COYPEL
"Trajan Rendant La Justice"
1672

ローマのフランス・アカデミーの学長も務めた画家ノエル・コワペル(息子や孫たちも著名な画家である)の作品。五賢帝の二人目トラヤヌスは、軍事的成功でローマ帝国の最大版図を築いた皇帝として知られるが、元老院と良好な関係を保って民政にも力を注ぎ、初代アウグストゥスと並んで古代から理想の君主とみなされる人物だった。多忙な中でも皇帝の責務である裁判の審理を怠らなかったというトラヤヌスについての伝記は、後世になると次のようなエピソードを生んだ。
――ダキア戦争に出立直前というトラヤヌスのところへ、息子を殺された母親が正義の裁定を求めに現れる。帰国してから応対すると答えた皇帝に、女性は「あなたが戻ってくるとは限りません」と率直に言い放った。これを聞いたトラヤヌスは、遠征の準備を後回しにして、彼女の事件の審理に時間を割いた――
この伝説は、トラヤヌスが正義ある統治者の世界である第六天・木星天の住人として登場するダンテの『神曲』で紹介されて有名になり、ノエル・コワペルの他、ノエル・ハルやドラクロワといった画家にも『トラヤヌスの裁定(La Justice de Trajan)』という作品がある。もっとも、同じようなエピソードはトラヤヌスの次の皇帝であるハドリアヌスの逸話として、こちらは後世の創作ではなく、ローマ時代の歴史家カシウス・ディオの伝記に登場する。
――巡察の旅に出発するハドリアヌスを追って、ある女性が請願に現れるが、時間がないとして断られる。すると女性は「ならばあなたは皇帝を辞めるべきです!」と叫んだ。これを聞いたハドリアヌスは、戻って彼女の話に耳を傾けた――
もしかしたらこの出典が、旅に出る前→遠征出発前、女性の請願→息子を殺された母親の訴え、というように劇的に脚色された上に、古代では皇帝としてあまり評判のよくなかったハドリアヌスから、至高の皇帝トラヤヌスの伝説に置き換わってしまったのかも知れない。ギリシア文化の愛好者で、神殿の設計図もみずから書いた天才肌のハドリアヌスより、実直な軍人トラヤヌスのほうが、正義の主人公にはふさわしいということだろうか。

| PICTVRA(美術作品) | 08:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブルートゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ刑吏たち


ジャック・ルイ・ダヴィッド
『ブルートゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ刑吏たち』
(ルーヴル美術館)
Jacques-Louis DAVID
"Les Licteurs rapportent a Brutus les corps de ses fils"
1789

新古典主義の巨匠ダヴィッドが描いたローマ版「大義、親を滅す」の故事。エトルリア人の王タルクィニウス・スペルブス(傲慢王)は追放され、ローマは共和政の時代となった。しかし政権交代によって皆が幸せを感じるわけではないのは、いつの世も同じこと。商才に長けていたエトルリア人と違い、ラテン・サビーニ系の地主が主力となったローマでは、経済活動や公共事業が滞り、街には失業者があふれる。不満は特に持たざる世代である若者たちに強かった。そこへ追放されていたタルクィニウス・スペルブスが、エトルリアの都市クルシウム(現キウージ)の王ポルセンナの助力を得て侵攻してくる。防衛に立ちあがるローマだが、若者たちの間ではタルクィニウス・スペルブスに呼応して、王政復古を図る動きも現れた。陰謀は発覚して首謀者は捕えられるが、なんとその中には初代執政官であるルキウス・ユニウス・ブルートゥスの息子ティトゥスとティベリウスもいた。王政打倒の功労者の心情をおもんばかり、市民は寛大な処置を求めるが、ブルートゥスは毅然として死罪を宣告する。鞭で打ち据えられた上に首を落とされるティトゥスとティベリウスの処刑の一部始終を、父は目をそらすことなく見届けたという。
ダヴィッドが描いたのは、このあとの場面。公人として反逆者に死罪を宣告した一幕ではなく、寝食を共にした家庭を作品の舞台に選ぶところがすごい。担架に乗せて運ばれてきた遺体は、画面の外では首を斬り落とされているはずである。家族の変わり果てた姿に、泣き叫ぶ母や妹たち。ひとり背を向けたブルートゥスの顔は影に覆われているが、表情はあくまでも険しい。


ギヨーム・ギヨン・ルティエール
『わが子に死を宣告するブルートゥス』
(ルーヴル美術館)
Guillaume Guillon Lethiere
"Brutus condamnant ses fils a mort"
1811

| PICTVRA(美術作品) | 08:07 | comments(0) | trackbacks(0) |